月山パイロットファームが成立したころ

月山パイロットファームが成立したころ

会長 相馬 一廣

 私が生まれたのは昭和22年。終戦の煙がまだ消えないころ、大勢の出征兵が帰り、第一次ベビーブームのはじまった年。

食糧難の厳しい時代が続き、食糧増産の掛け声大なる時だった。
そのため、一坪でも農地をひろげる事が時代の要請でもあり、また農家にとって、収入を増やす道でもあった。農地解放によって有史以来の小作から開放され、働いただけ豊かになれるという話が信じられた時代。そんな騒然とした時代に生まれ、小学校、中学校と進むまで、いつも腹が減っている、そんな中に育ち、昭和44年、就農し、米作りと、畔草を利用した肉牛肥育経営をはじめた。

何かのお祝い,あるいは晴れの日(祭りとか,正月とか、農作業の節目とか)は、お餅が一番のご馳走であった。海の魚は、毎日ということはなく、塩乾ものが中心だった。
秋、堰の水を落とすと取り残された鯉やなまずを大勢の大人がカイボリして、手桶に何杯も捕まえ、その魚をあぶるのが女子衆の仕事だった。それがご馳走であった。

 

◆有機燐剤が使い始められたころ

小学校の高学年のころ、ある日田んぼに赤い旗が立てられ、田んぼに入ることや、川で泳ぐことが禁止された。
今になって思うとそれが、有機燐剤「ホリドール」や有機水銀剤「セレサン石灰」の撒布の始まりだった。

稲作農家にとっていもち病やウンカ、イナゴ等は、大害を及ぼすもので、今では考えられないほど減収したし、毎年、決まって梅雨明けのころ水害にも見舞われた。
冬の間の、馬橇による堆肥運搬や、春先の人手による堆肥撒布、田植え、そしてそれが済むと稲刈りまで草取りと、重労働の連続だった。

 

そのため、増収と省力の技術は、農業の近代化技術として喜んで受け入れられた。その第一号が、硫安や、過燐酸石灰、重焼燐,塩化カリなどの化学肥料であった。

油粕や魚粉など高価で嵩張る有機質肥料はたちまち使われなくなったようだ。

 

◆機械化と除草剤・有機水銀材の使用

第二号は,農業の機械化である。
昭和28年には,私の家にも動力耕運機が導入された。6馬力の耕運機で30万円位だったようだ。米1俵が1000円しないときだから大変に高価で、朝早くから、夜遅くまで、請負作業もしながら償却していった亡き父から聞かされた。

一旦導入されれば、次はより大きな馬力の耕運機、そして昭和46年には、協同でトラクターが導入された。

近代化の第3号は,農薬である。
イナゴや、ニカメイチュウなどの防除のため、BHCなどは,手回しの散粉機で撒布していたようだが,協同防除で、一斉に撒布したほうがより効果が高いということで、30年代中ごろから始められたようだ。

効果の高い確実な農薬ということなのか,有機燐剤が撒布されるときは,その地域は立ち入り禁止を表示するため,竹の先に赤い布をつけた旗が要所要所に立てられた。
学校でも注意されたように思う。川での遊泳や、魚獲り(ザッコシメ)は禁止された。その夏から,蛍やトンボはいなくなった。蚊やハエも少なくなった。

また、その時期に撒布が始まった有機水銀剤は、いもち病の特効薬だったが、山形大学の阿部襄先生の研究によれば、それまで日本海で検出されることのなかった、有機水銀が撒布後数年で、どこでも検出されるようになったというお話は、いかに汚染の速度が速いかという驚きをもって聞いたものだった。

昭和40年代末からは、PCPを手始めとして除草剤の導入が始まった。
PCPは、風上に向かって撒くと、眼が痛くなってあけられなくなり,咳き込んで,作業が続けられなくなるという代物で,撒布した直後から,ドジョウや小魚などが,白い腹を出して浮かんでくるというほど魚毒性が強かった。

また、PCPを含んだ「パムコン」という除草剤も同様で,水が黒くにごり,生
命の姿が全く見えない田んぼは異様であった。

しかし、農家自身は,1反歩あたり300円位で手取り除草から開放された。その反面、それまでの水田は,めだかやドジョウ、やご、タニシ、ゲンゴロウ,時にはフナの子供やなまずの幼魚、きれいな水草や様々な生き物が生きている場所だったが、稲だけしか生えていない不気味な世界に変わった。

堰は,用水と排水を兼ねた、素掘りの水路で、春の堰堀、初夏の堰掃除は年中行事であった。
ちょっと手を抜くと、マコモやヨシ、水草など、すぐ水が流れなくなるほど繁茂した。その代わり、オニやんまや銀やんま、塩からトンボ、カラストンボ、糸トンボなど沢山のトンボ類や、蛍、網をかけると、えび、フナ、なまず、きらきら虹色に輝くタナゴなど子供でも採ることができた。
中学校位になると、カーバイトを燃料にしたトーチランプを使って、夜、「ひぼり」にいった。強い光で堰を照らすと、運がよければ大きななまずや鯉が悠々と泳いでいるのに出会うことがあった。特に「サンゼ」と呼ばれる50センチを越す大なまずは見事であった。

こんな豊かな水田や水路も、除草剤や有機水銀剤を使用するようになると、全部姿を消した。畔を歩くとぶつかるほどいたイナゴも山奥にしか生きられなくなってしまった。

 

◆圃場整備ー水田の区画整理

昭和45年ごろから「圃場整備」と呼ぶ水田の区画整理が始まった。

庄内地方は大正時代から、乾田馬耕を取り入れて効率を上げるため、1反歩の区画整理はほぼ終わっていた。しかし、水路が素掘りで用排兼用であったため、田
んぼ全面に水を張るころになると、上の水田の水が、下の水田にしみ出し水を向けなくても湿田に変わった。そのため水稲以外のものを栽培することは難しかった。

また、道路も馬車がやっと通れる狭いものでトラクターなどもしばしばぬかって動けなくなったり、道路自体がない田もあった。従って、水を張る前に、他人の田を渡って作業をしなければならず油断できなかった。

こんな事情もあって、大型機械を導入するためと、用水と排水を分離して、田畑輪換を可能にするために圃場整備事業が始まった。減反政策が始まったこともあり通年施行で行われるようになった。
この圃場整備を境にして、水路は全てコンクリートになりパイプ灌漑の地区は用水路すらなくなった。また、河川も整備が進み、京田川添いにあった谷地といわれる茅原や柳の水辺も姿を消した。

そこは、子供のころ、茅で弓の矢を作ったり、うぐいすやオオヨシキリ、ムクドリ、カラス、雉バトなど鳥の巣を探す遊び場であり、ノカンゾウやヨモギ、ふきのとうなど山菜を取るところであった。

また、梅雨明け頃には必ず氾濫し、洪水と共にあがってくる大鯉や大なまずを捕らえる漁場でもあった。時には、沢グルミの枝にフクロウがとまっていることもあった。ここにもブルドーザーが入り整地がなされ、整然と区画整理された田畑になった。
このような大変動を経て、生物層はすっかり単純になり、豊かな自然は失われてしまったように思う。

 

また、協同防除の時は、全町単位で同じ薬を使い、トラクターを使う集落や、背負い動紛など色々あったが、一斉に、朝2~3時ごろから夜10時11時ごろまで作業し、年5~6回撒布された。防除効果をよりあげるための措置とされたが反対することは不可能に近かった。

この時代、毎年必ず庄内で2~3人の男性が農薬中毒で死んだことがニュースになった。

一方では、自家用野菜には農薬を使わないという農家もあり、人の生命をあがなう唯一のものである食べ物が、こんな風に作られていいのか、という疑問をもった人も多かったに違いない。

しかし、一般市場出荷であれ、農協出荷であれ、指導どうりの農薬散布をしないものはものは売れず、まして、少しでも食害の痕や、病気による褐変があるものは買い手がつかず、ましてや有機農産物の流通はごく少数の例外を除いてできなかったのが実情であった。

世の中は効率と売上の増大のみが関心事であり、本当の品質のよさ、例えば安全性であるとか、環境に負荷をかけずに永続的に生産できるとかは問題にもされなかった。

しかし、農薬中毒の多発や、消費者の健康障害、豊かな自然の喪失など、色々な問題が表面化するにつれて、消費者の間にも、少数ではあるが、本当に食べ物に値するものは何であるか、有機農産物を食べてみたいと思う人たちがでてきた。

 

こんな時、レーチェル・カーソン著「沈黙の春」、有吉佐和子の「複合汚染」などが世に出、近代農法一辺倒に対する対案として「日本有機農業研究会」が作られた。

このような時代、昭和52年生活クラブとめぐり合ったのが月山パイロットファームの始まりである。